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林伝祥の起業物語と彼の目標哲学 <前編>

林さんと知り合ったところは山東青島、日本留学・研究生プロジェクトの協力を頂くために、私は北京から青島に赴きました。その時、林さんが履いていた布靴が私に印象深かったです。その後、日本への研修生派遣プロジェクトを林さんの会社と一緒にやりました。当時、林さんが山東外貿の于社長と一緒に山東・泰安へ研修生を選抜しにきたことがあり、私はホスト側として泰山のふもとで客にご馳走するはずだったが、彼らはよその物事に関心なく、仕事に集中し、研修生への面接が終わってから早々に去っていきました。2008年に、米国のサブプライム危機を機に世界的な金融危機が生じており、日本の中小企業が不況に陥り、日本への研修生派遣事業は継続できず、その後、林さんとの連絡がなくなりました。しかし、林さんの事業に専念する姿と仕事に対する真面目さがずっと印象に残っています。 

2011年の4月、私は日本大地震の1ヶ月後に来日しました。その1年前に林さんも日本で留学生活を始めたとは思わなかったし、3年後のある日の夕方、私たちが日本で偶然出会ったとは思いもよりませんでした。車の中でおなじみの山東方言を聞いたとき、私は興奮していたのを覚えています。

2015年3月、林さんはドラックストアBECKというブランドを設立しました。外国人で、そして店舗の形で設立したドラックストアは、当時の福岡では初めてです。彼の成功は先述した彼の人格と関係があり、彼独自の目標哲学にも関わっています。(文:李博)


林伝祥の起業物語と彼の目標哲学 – <前編>

取材者:李博  |  取材時間:2020.4.24


日本留学のきっかけ

李:林さんが日本に来たのはいつですか。

林:2010年の4月16日です。 

李:あの時、どうして日本に来たかったのですか。

林:実は偶然なことです。最初、青島のある会社で日本研修生に関する業務をしていたが、2008年の金融危機のせいで、商売は順調に進めなくて、会社は貿易事業を開拓したかったです。この前ずっと日本研修生の業務をしていて、日本に親しいので、会社が最初注目したのは中日貿易です。それで、私は青島の日本語学校へ日本語を勉強しに行きました。会社の隣に五分だけで歩ける日本語学校がありますから、暇なときはここで日本語を勉強していて、会社は何か用事があればまた会社に行きます。

その時、この学校で勉強している学生の中で、留学を目的としないのは私だけです。ほかのクラスメートは日中留学の話を多く聞いてていました。それでだんだん日本留学のことについて詳しくなってきました。日本語の勉強は最初とても遅かったが、二か月後に少しずつ話せるようになりました。 

李:五十音図を覚えるのは速いですね。

林:当時の学生の中で私の年齢が少し高くて、ほかの人より勉強も遅かったです。しかし、愚かな鳥は先に飛ぶタイプで、年齢のことを含め、自分の危機感が強いので、放課後にも研究したりはします。二か月をかかって勉強して大体話せるようになりました。もう一つは話す勇気があることです。一緒に勉強していたクラスメートはみんな20歳くらいで、私は二十五、六歳です。メンツにも余裕があって、先生と仲がいいので、話す機会を増やすことを意識していました。基本的に二か月が経って、日本人と簡単なコミュニケーションができました。その後、日本語学習がボトルネックになったことに気づいて悩んでいました。一緒に日本語を勉強していた学生たちも日本に行きましたから、わたしも日本へ留学に行く考えが芽生えてきました。日本でバイトしながら勉強することができるし、負担はそんなに重くないし、中国より日本で日本語を勉強するのは早いからです。 

李:その時、日本で起業する考えはまだなかったですか。

林:日本で起業するという考えはなかったですが、何かをしたいです。日本に来てからバイトしながら日本語を勉強したり、会社の業務開拓もやったりする考えはあります。その時の考え方は甘かったですね。日本によく知らなかったので、中国と同じように、オフィスビルに行って、ドアをノックして業務の話をすることができるのではないかと思っていました。外で通うことが好きで、外国で生活することも今後の発展にもいいと思って、留学することを決めました。 

李:留学することに対して、ご家族はどう思いますか。

林:反対でした。年齢のことを考えて、その時はもう26歳だったので、社会人になったのも七、八年が経ちました。26歳の年齢でそんなに遠いところへ行くことなんて、しかも結婚のプレジャーがあるので、両親は反対でした。学生時代は「悪い学生」で、勉強が下手な子なので、みんなは理解できなかったです。2年間をくださいと、自分の視野を広げたいと両親に言いました。それから、父親は、男の人は外に出っていって見識を広げるべきだと言ってくれました。

来日後、日本の大学に進学するまで

李:それで、2010年4月に日本に来ましたね。まず日本語学校に通ったでしょうか。

林:はい、最初の2年間、日本語学校に通いました。

李:日本に来られたら、日本語はうまくいったんですか。

林:ええ、私が通った言語学校は、最初の3か月はバイト禁止です、勉強に集中しなければなりません。

李:どの日本語学校ですか。

林:「西日本国際教育学院」という学校で、南区大橋のあたりにあります。最初の3か月はバイト禁止だから、その頃本当に一生懸命勉強していました。

李:日本に来たら、考え方も少し変わったのでしょうか。

林:3か月後、バイトができました。でも当時に職を探すことが難しいし、うちの学校もいろいろな特殊状況があるし、学生は皆バイトを探しにくいでした。だから日本に来てからの4月から12月まで、この間私は時々臨時雇いの仕事をしていました。固定なアルバイト先見つからなくて、安定できません。逆に、そのおかげで勉強しかないと思って、その1年間、日本語が本当に飛躍的に伸びました。1年の勉強でN2に合格しました。実は、当時の日本語学校の担任先生はN2に受験することに反対でした。

しかし、私は「N3に合格しても意味がない」と主張しました。結果、挑戦して見事合格しました。年末の頃、ちょうど敬語の勉強も終わり、アルバイト先で面接する際、敬語を使って面接官と話しました。外国人として日本に来てただ1年でN2に合格し、敬語まで使えるなんてすごいと言われました。これで、私はある結婚披露宴を行うところで、正式的なアルバイト先を見つけました。

李:それから、起業したいと思いましたか。

林:いいえ、その時にはまだその考えが出ませんでした。なぜなら、その時期にアルバイトをしながら勉強し続けたという状態でした、アルバイトの時間が多かった、勉強の時間がかえってぎりぎりになりました。その時日本語の学習にも困難が出たはじめ、その状況は大体半年ぐらいに続きました。

もともとの計画は、日本語学校に通う2年間で日本語で日本人と交流できることを目標として勉強したんですけど、しかし、学校で勉強したものは日本人の普通にしゃべっているものと違うことに気がつきました。日本人の話はやはり理解できない部分も多かったので、ショックを受けました。その時、すでに来日1年半くらい経ちました。私は自分の目標を振り返り何度も考えました。「もし最初には国内で勉強すれば、この長い時間の学習を経って、日本語のレベルも今の程度と同じ、たぶん今より良くかもしれません。だからこのレベルで帰国したら、私は失敗者になる」と思い込みました。なぜなら、私の目的は勉強だけでなく、日本でもと会社のために貿易業務などもしたかったのです。

しかし、その時まだなんの進捗もありませんでした。その状態で帰国すると、失敗話になるに間違いないと。でも日本で引き続き滞在するならば、私にとって、「進学」という方法しかないと思いました。それに、私は中国で正規の大学に通うことがありませんので、大学生になって大学授業を受けることが私の夢でもあります。それで、私は日本で進学することを決めました。進学先は、「実践型、そして商学科が設置されている大学」がベストだと思いました。実は、日本に来る前に福岡という都市を選んだのも、貿易や交通の利便性などを総合的に考慮したからです。

李:つまり、日本に来る前に、留学先もよく調べましたね、それは自分が勉強しながらビジネスチャンスを探すという目的にあいますね。

林:はい、そうです。私はもう国内で何年間仕事をしましたので、当時起業する気持ちがなかったとしても、会社のやくにたつことであれば、何かをやりたかったです。だからくる前に福岡について一定の調査を行いました。進学先の選択も、福岡の大学しか希望しませんでした。これで、私は福岡大学と九州産業大学の2つの大学を絞りました。この2つの学校は、両方とも貿易に関わる商学科があります。でも当時九州産業大学を選んだ原因はもう一つありました。それは福岡大学の選考料は3万円で、九州産業大学は1.5万円でした。その時、まだ経済的に余裕ではなかったので、結果、九州産業大学を決めました。

李:もし受からなかった場合、どうするかということを考えましたか。

林:実は、当時日本語学校の先生に、進学先を一つのみにしたらダメだと言われました。中村学園大学、九州情報大学と北九州の一つの大学を推薦してくれました。北九州の大学は良いですが、福岡市に立地しませんので私の希望に合わないです。九州情報大学も正規の大学ですが、この学校は中国人が多くて日本人が少ないとのことを噂として聞いたことがあるので、印象がよくありません。中村学園大学は大学規模と日本人の学生の数がOKです。しかし、私が志望している商学科がないので、行きたくないです。

その結果、日本語学校に勧められた3つの大学候補を全部拒否しました。どうしても自分の希望や目標にあった、九州産業大学に入学したいということです。この件で日本語学校との間に、ちょっと不愉快な期間がありました。実際に、自分自身は最後の候補としてすでに決めまして、もし九州産業大学を受からなった場合、日本経済大学に行くと決めていました。4月入学向け経済大学の最終選考は3月なので、時間的に余裕があります。

李:九州産業大学に合格できないと帰国すると思いました。意外にもう一つの候補がありましたね。

林:進学せずにそのまま帰国したら失敗者だと思いますので、進学のことを決めました。どうしてもそれを実現します。もちろん、九産大の入学試験に合格したいんです。万が一の場合、経済大学に行くつもりです。 

李:林さんの大きな長所に気付きました。林さんは目的や方向などを決めてから、常に今の自分を評価することです。すなわち最初になぜ日本に来たのかとか、やりたかったことがもう達成できたのかとか、目的がまだ達成できていないならこのまま帰ったら留学の意味があるのかとか、そして自分の目標を達成するにはどうすれば良いかとか、林さんはこのように今の自分はどの位置に立っているのかを評価していますね。福岡+商科を決めた以上、この二つの条件を満たしているのは九州産業大学と日本経済大学だけ、その中まず九州産業大学を攻めて、ダメなら、経済大学にします。 

林:その通りです。私は目標を決めたら、なかなか変えない、目標に向かって絶対に何とかして実現してみたいです。でも、実現できなかった場合の事前準備もします。一番悪い結果を予想して覚悟と準備をします。そして、自分の状況に合わせた目標を立てます。高い目標設定でしたら、実現可能性がゼロの場合が多く、私は最初からそういう目標設定をしませんし、もし1%の実現可能性があるならば、ベストを尽くして達成してみます。 

李:素晴らしい。中国国内では一時期に成功学が流行っていまして、実はそれがブームになる前に私は接触し始めました。成功学を標榜する本を読んだわけではありませんが、バフェットや孫正義やジョブズや、多くの人物伝記を読みました。国内の史玉柱、ユウミンホン、馬雲などの有名な企業家の伝記まで全部読みました。

読んだ後ですね、高い志と目標を自分に設定しました。それで多くの場合、目の前で一番やるべきことは無視しがちです。今の自分はどのような資源を持っているのか、それだけでも何かやることはないか、そう考え、やるべきなのに、現実に即しない高遠な目標のみを設定すると、目の前のものは見えなくなります。私は多くの場合、考えすぎるタイプです。理想は偉いで現実は残酷なものです。いっぱい計画を立ててますが、その多くは結局机上の空論になりました。頭がよくて利口すぎると、逆に大きな成功を得ることは難しいと思います。

私は今まで完璧主義者でなんでも非の打ち所がないまでやってきました。そうすると、プロジェクトの進行が遅くなり、計画が最後までやりきれなくなる場合が多い。私の今の目標は「完成主義者」になることです。完璧を追求しなくて、取り敢えず完成するようにします。先ほど感触が多かったので、すみません、話を続けましょう。 

林:私は自分に対する要求と目標も高いけれども、李さんと違うところは、私はいつも、その高い目標を実現するために、自分にどのような資源があるのかを考える。自分にはまだ何もないと自己評価したら、少しずつやり続けることで、将来いつかそういう資源を完備できた時、その高い目標を実現できるかもしれない。

何もない自分に高い目標やストレスを与えたらよくないと思います。逆に何も目標を設けずもよくないです。例えば、NO.1の目標を設けた場合、NO.1に達成できなくても、ラスト1番になる可能性が極めて低い。要するに、目標を立てたら、簡易に変えないこと、よく自分自身を評価することです。

林伝祥氏や彼が創業した会社の詳細について、ドラッグストアBECKのHPを参照し、彼のWeChat: louis-lcx を友達追加してください。

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